時八鹿の歴史
蔵元三代目と杜氏の名より、
銘酒「八鹿」は生まれた。
創業は元治元年(1864年)、
美しい九重連山を源として湧き出る伏流水、
その豊かで清冽な水が流れ込む玖珠盆地で
八鹿酒造は起った。
当時の名は「舟来屋」。
九州で現存する最古の鏝絵が描かれた
当時の仕込蔵が、
今でもその歴史を物語っている。
始まりは舟来屋
江戸時代末期の元治元年(1864年)、初代麻生東江(とうこう)により八鹿酒造の歴史は始まる。当時の名を「舟来屋(ふなこや)」と称し、この屋号と鏝絵が描かれた仕込元蔵が、今でもその歴史を物語っている。 当時の九重の地は水利が悪く、井路をつくり村人を飢えから救おうと決心した。しかし灌漑工事は難しく、資金不足、百姓一揆、天災など次々と危機が訪れ、息子・二代目豊助(とよすけ)とともに進めてきた工事は幾度も挫折した。やがて井路はできないまま、麻生家は家財や山林原野を売り、酒造権利をも手放してしまう。
三代目 麻生観八
舟来屋の再興を果たしたのは、わずか15歳で養子に入った三代目麻生観八(かんぱち)だった。観八は天領日田の豪商・草野家の分家で酒造家・草野丈右衛門の五男として生まれた。名家に生まれながら12歳の時に家が破産したため、並々ならぬ貧乏と屈辱を味わってきた。
「自分が大人になったら必ず家業の酒屋を再興しよう。」
その志を養子先の麻生家で果たすこととなる。観八は明治18年(1885年)、当時の酒造免許の最下限であった百石(一升瓶1万本)をもって舟来屋・麻生酒造場を再興した。
清酒「八鹿」誕生
明治18年、弱冠20才の観八と34才の杜氏・仲摩鹿太郎(なかま しかたろう)が精魂傾けて造った酒は、地元の名瀑、龍門の滝にちなんで「龍門」と名づけられた。この酒が次第に評判となり、観八は互いの心意気を讃え、自分の名と鹿太郎の名を一文字ずつとり『八鹿』と名を改めた。
家業の酒造業が軌道に乗ると、観八は「世のため人のため」の公共事業に力を注ぐ。先代が果たせなかった井路を完成させ、国鉄久大線敷設という大事業にも着手し、20年を越す絶え間ない努力の末、昭和4年、久大線の引治・恵良・森の各駅が開通した。観八はその前年に63歳でこの世を去った。念願の鉄道開通を見ることは出来なかったが、遺徳を偲ぶ人々によって銅像が建てられ、今も恵良駅と八鹿酒造を見守っている。
努力の末に
四代目麻生益良(ますよし)は、堅実経営で無借金経営を貫き通した。益良は純粋酵母の研究に注力し、全国酒類醤油品評会において立て続けに優秀賞を受けるなど、「八鹿」を銘酒の座へと押し上げた。 そして戦後、麻生家五代目として酒造業を継いだのが医学を志していた麻生太一(たいち)である。それまで地方の酒造業では考えもしなかった鉄筋コンクリートの製造蔵を造った。“普通酒にして銘酒”と酒通に賞賛される九州では稀な辛口の酒「笑門八鹿」の誕生である。さらに昭和43年(1968年)には四季醸造が可能な空調設備をもつ鉄筋の「永錫蔵」を完成させるなど、八鹿の長い歴史の中でも革命ともいえる功績を刻んだ。
焼酎ブームの襲来
平成10年、六代目麻生益直(ますなお)が社長に就任した。昭和60年代から清酒の消費量に翳りが見え始めた。本格焼酎ブームの余波だった。しかし、益直にはこれを好機とする一つの考えがあった。銀座で粋に遊ぶ本物を知る大人たちに支持される洋のスタイルをもつ焼酎造り、それが現在の八鹿焼酎の主力製品にもなった「銀座のすずめ」である。益直の思いは発売後まもなく日本の中心、銀座に届くことになる。今では「銀座のすずめ」ブランドは、新タイプ焼酎として、焼酎ファンのみならず広く酒通にも愛飲されている。